聖域

第1章:腐土

泥濘(ぬかるみ)が靴底にねっとりとへばりつく。纏わりつくような湿気は、まるで巨大な肺腑の中に閉じ込められたかのようだ。

地図から消された集落、綴里村(つづりむら)。山肌に張り付くように点在する古民家群は、数日続く集中豪雨のせいか、ひどく黒ずんで見えた。

「最悪だぜ。なんでこんな時期に陸の孤島なんかに」

背後で舌打ちをするのは、フリーカメラマンの田辺だ。彼の機材ケースが泥水を跳ね上げる。その傍若無人な振る舞いに、出迎えに出た村人たちの顔色が変わる……ことはなかった。彼らはただ、能面のように感情を削ぎ落とした顔で、雨の中に立ち尽くしている。

違和感。ルポライターである蓮(れん)の脳内で、警報が鳴る。村人たちの年齢層は明らかに高い。腰の曲がった老婆、白髪の老人。だが、雨合羽の隙間から覗く彼らの「肌」が、異常なのだ。

皺ひとつない、赤ん坊のように張りつめた桃色の皮膚。

その異様な若々しさと相反するように、彼らの肉体はどこか不自然に欠落している。傘を握る老婆の右手には小指と薬指がない。案内役の男は左耳が削ぎ落とされたように平坦だ。刃物で切り取られ、そのまま綺麗に塞がったような、無機質な断面。

「ようこそ、聖域へ」

村長宅の土間。車椅子に深く沈み込んだ男が、車輪を軋ませて現れた。九条厳(くじょう げん)。この村の長だ。白濁した眼球が、泥だらけの蓮たちを舐め回す。厳の首筋は、まるで二十代の青年のように瑞々しく、青い血管が脈打つのが透けて見えた。

「道中、災難じゃったな。あの橋は当分直るまい」

直後、山鳴りのような轟音が響いた。蓮たちが先ほど渡ってきた唯一の吊り橋が、土砂混じりの濁流に呑み込まれた音だ。帰路は絶たれた。

「お茶をどうぞ」

差し出された湯呑み。濁った緑色の液体から、強烈な鉄錆の臭いが立ち上った。田辺が遠慮なく喉に流し込み、「なんだこれ、血の味じゃねえか」と下品に笑う。

蓮は口をつけることができなかった。左腕の、あの大規模な手術痕が、唐突に熱を持ち始めていたからだ。まるで、この村の空気に触れた途端、皮膚の下で冬眠から目覚めた蛇が蠢き出したかのように。意志を持った筋肉が、微かに痙攣している。

「どうしたんじゃ、蓮」

――蓮?

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。名刺はまだ渡していない。初対面の相手をいきなり下の名前で呼ぶだろうか。まるで、何十年も前から知っている身内を扱うような、ぞっとするほどの馴れ馴れしさ。

厳が、歪な笑みを浮かべて蓮の左腕を見つめていた。その白濁した瞳の奥に、客に向けるものではない、ねっとりとした「執着」と「飢え」の光を見て、蓮は息を呑む。

第2章:饗宴

ひび割れた鐘の音が止むと同時に、ひっそりと襖が開いた。通されたのは、黴と古畳の匂いが染み付いた奥座敷。窓の外では狂ったように雨が泥を打ち据えている。

漆塗りの膳が、蓮と田辺、そして厳の前に静かに置かれた。中央に鎮座するのは、透き通るような桃色の生肉。

「さあ、遠慮はいらん。村の『特産』じゃ」

厳が喉の奥で笑う。肉は仄かに体温ほどの熱を帯びているように見える。鼻腔を突いたのは、酷く甘ったるい、乳児のうなじを思わせる匂いだった。

「うお、マジかよ。うめぇ……!」

田辺が獣のような形相で肉を貪り始めた。二切れ、三切れ。咀嚼すら忘れたように、脂にまみれた唇から次々と赤い塊を流し込んでいく。

蓮の左腕の筋肉が、ビクン、ビクンと不規則に跳ねる。まるで「同胞が喰われている」ことに共鳴するかのように。

異変は、唐突に訪れた。

「ガッ……、あ……?」

田辺の動きが硬直した。両手が首を掻き毟る。彼の顔面から一気に血の気が引き、土気色を超えてどす黒い紫へと変貌していく。

ゴボァッ。

田辺の口から床に転がり落ちたのは、先ほど飲み込んだはずの、元の形を完全に保った「赤身の肉塊」だった。肉塊は、どす黒い血にまみれながら、畳の上で脈打っている。

「ひっ……、あ、がァァァッ!」

田辺の皮膚の下を、ボコボコと「何か」が移動していく。飲み込んだ肉が、彼の肉体を内側から喰い破り、拒絶している。痙攣が頂点に達し、田辺の呼吸は、完全に停止した。

「あら、適合しなかったのね」

孫娘の紗季(さき)が、ゴミを見るような目で死体を見下ろした。彼女の口元が動く。パキ、コリ。硬い軟骨を噛み砕く音が、彼女の唇から響く。

「さて、蓮」

厳の白濁した眼球が、蓮を捉えた。 「田辺の『残りの部位』が腐る前に、おしわけを始めようか」

第3章:苗床

嘔吐を堪え、蓮は反射的に畳を蹴った。背後で田辺の死体が引きずられる鈍い音がする。気づけば、豪雨の闇の中、土蔵へと続く泥濘を走っていた。

逃げなければ。だが、左腕が、厳のいる母屋へと蓮を引っ張ろうとする。自身の肉体が反逆を起こしている。

土蔵の奥。氷室へと続く石段を降りる。一段ごとに、匂いは「死」から「生暖かい生」へと変質していく。

青白い裸電球が吊るされた地下空間。そこには「それら」がいた。人間だったもの。十数人。右脚がない男、顔の皮膚がない女、腕がない子供。傷口は雑に塞がれ、生かさず殺さず「養殖」されている。

彼らは、生きながら少しずつ削り取られる「苗床」だ。他者の肉を、臓器を、適合する血族から奪い、自身の体に継ぎ接ぎして生き長らえる。それが、この村の共食いシステム。

脳髄を、強烈なフラッシュバックが殴りつけた。 『お母さんの、とっておきだからね。これで蓮は、極上の器になるのよ』

あの甘い肉の味。自分は、村から逃げ出したのではない。最高級の「部品(ドナー)」として、外の世界で純粋培養されていたのだ。

「思い出した?」

暗闇の奥。パキ、コリ。咀嚼音とともに紗季が浮かび上がった。彼女の左脚には、蓮の腕と同じ歪な縫合痕が這っている。

「あなたの左腕、ずっと厳様が『使って』たのよ。でも、もう限界だから。新鮮な元の持ち主に、還してあげないと」

紗季の手には、出刃包丁が握られていた。蓮の左腕が、歓喜するように激しく跳ねた。

第4章:部位

逃げ場はない。紗季が一歩、距離を詰めた。

「痛くないわ。だって、元ある場所に還るだけなんだもの」

蓮は後ずさろうとしたが、左腕が、動かない。いや、動いている。蓮の意志とは無関係に、自ら紗季の刃へと指を伸ばそうとしている。

自分の腕が、自分のものではない。誰かの臓肉が、ただ一時的に自分という「容れ物」に保管されていたに過ぎないという真実。

「さあ、厳様がお待ちかねよ。あなたのその新鮮な腕を、今度は厳様の『右脚』として繋ぎ直すの」

腕を、脚に? 人間という原型すら留める必要のない、終わらない肉の循環。

「あ……あァァァ……!」

左腕が限界まで前へ伸び、関節がゴキリと音を立てる。自ら差し出された手首の付け根に、紗季の包丁が吸い込まれた。

肉を断ち、骨を砕く音。

痛みは、なかった。ただ、圧倒的な喪失感と、左腕が本体(厳)へ還っていくという「醜悪な安堵感」だけが、蓮の脳髄を真っ白に焼き尽くした。

切り離された左腕は、床の上でビクンビクンと跳ねながら、這うようにして階段の上の母屋を目指していく。

「大丈夫。死なせはしないわ」

最後に見たのは、ルナの冷徹な微笑。 「あなたの右目も、その肝臓も。全部、この村の『未来』なんだから。ゆっくり、少しずつ、使ってあげる」

雨は上がった。

朝日を浴びる村長宅の縁側。厳が、新しい右脚の感触を確かめるように、力強く床板を踏み鳴らした。その足首には、かつて蓮の左腕に刻まれていた、あの歪な手術痕がくっきりと浮かび上がっていた。

地下深くの氷室で、声帯を切り取られた新しい「苗床」が、今日からまた静かに培養液を啜る。