深く、息を吸って

【第一章:無菌の棺桶(再修正版)】

兄の部屋は、いつも病院の匂いがした。 いや、病院よりもタチが悪い。あそこには血の通った人間がいるが、兄の部屋には「完璧な清潔」しかなかったからだ。

タワーマンションの高層階。窓は開かない。外の空気は一切入ってこない。 玄関を開けると、漂白剤とアルコールが混ざったような、鼻の奥がツンとする冷たい空気が顔に張り付いてきた。

「……沙耶さん?」

声をかけても返事はない。 奥のリビングから、かすかな機械の駆動音が低く響いているだけだ。この家は、見えないところであらゆる空調設備が常に稼働している。

「兄さんは書斎です」

音もなく、義姉の沙耶が廊下の影から現れた。 白いエプロン。血の気のない肌。いつものように、感情の抜け落ちた顔をしている。 「鍵がかかっていて。中から変な音がして……それきり、静かになっちゃって」

嫌な汗が背中を流れた。 兄の書斎のドアノブを回す。回らない。内側から鍵がかかっている。 「兄さん、開けるぞ」 返事はない。 ドアに耳を押し当てると、水の中で溺れているような、ゼー、ゼー、というくぐもった音が聞こえた。

迷わず、廊下の隅にあった消火器を持ち上げる。 ドアノブの横に思い切り叩きつけた。何度か繰り返すと、バキッと木の割れる音がして錠が壊れた。 蹴り開ける。

むわっ、と。 ひどく重たくて、生温かい空気が溢れ出した。

部屋の奥、立派な革の椅子の上で、兄は仰け反っていた。

顔が、どす黒い紫色に腫れ上がっている。 両手で自分の首をかきむしったのだろう。喉元の肉がボロボロに裂け、爪の間には自分の皮膚と血がべったりと詰まっていた。 目は限界まで見開かれ、白目が真っ赤に染まっている。 だらしなく開いた口からは、泡立った唾液が胸元へダラダラとこぼれ落ちていた。

息をしていない。

部屋の中は、異常なほど片付いていた。 ホコリ一つない机。綺麗に並べられた除菌シート。争った形跡はどこにもない。凶器もない。 毒を飲んだのか? それとも心臓発作か? しかし、毎日のようにサプリメントを飲み、少しの汚れすら許さなかった健康そのものの兄が、なぜ密室で自分の喉を掻き毟って死んでいるのか。まったく理由がわからない。

ふと、胃の底がひっくり返るような吐き気がした。 ツンとする漂白剤の匂いの奥底に、何かが腐ったような、甘くてひどく生臭い匂いが隠れている。泥水と生ゴミを混ぜて、無理やり香料でフタをしたような悪臭。 部屋の隅で、小さな緑色のLEDランプが静かに点滅している。完璧に密閉された無菌の空間。

「……救急車を」

振り返ると、沙耶が廊下に立っていた。 彼女は兄の無惨な死骸を見ても、悲鳴一つ上げない。顔色一つ変えなかった。 ただ、虚ろな目で兄の足元を見つめている。 視線の先には、兄の口から垂れた唾液が、磨き上げられたフローリングに作った小さなシミ。

「……床が、汚れちゃいましたね」

ひどく平坦な声で、彼女はそれだけを呟いた。 悲しみも、恐怖も、悪意すらもない。その空っぽな横顔が、目の前の死体よりもずっと不気味だった。

【第二章:淀む水音】

鑑識のフラッシュが、ホコリ一つない無機質な壁に何度も反射する。

「急性呼吸不全ですね」 くたびれた顔の刑事が、手帳から目を離さずに言った。 「気道から肺にかけて、強烈な炎症反応が出ている。何か致死性のガスか、重度のアレルギー物質を大量に吸い込んだような……だが、この部屋には劇薬のビン一つない」

毒を飲んだわけではない。窓の開かない密室で、勝手に肺を腐らせて死んだ。 警察は「突発的な発作」か「未知の化学物質への過敏反応」として処理するつもりらしい。

馬鹿げている。 兄は極度の潔癖症だ。外食すら「他人の飛沫が飛んでいる」と拒絶し、水道水は絶対に口にしない。毎月箱で届く指定のミネラルウォーターしか飲まない男だ。 そんな男が、自分の聖域であるこの書斎で、得体の知れない毒を自ら吸い込むわけがない。

警察が引き上げた後のマンション。 ひんやりとしたリビングに、チャプ、チャプという水音が響いている。

キッチンを覗き込むと、沙耶がシンクの前に立っていた。 夫の遺体が運び出されたばかりだというのに、彼女は大きなプラスチックのタンクを洗い、そこにペットボトルのミネラルウォーターを注ぎ込んでいる。 トクトクという澄んだ音が、ひどく耳障りだ。

「何をしてるんですか」

「お水、替えないと」

振り返った沙耶の顔には、相変わらず何の感情も浮かんでいない。 「あの人、空っぽになると怒るから。必ず、指定のミネラルウォーターを使えって」

死んだ人間に向かって、何を言っているんだ。 彼女の足元には、空になったペットボトルが何本も転がっている。

その時、ふわりと冷たい風が顔を撫でた。 キッチンの換気扇の気流に乗り、シンクの奥からあの匂いがした。

兄の書斎で嗅いだ、泥水と生ゴミが混ざったような、甘腐った悪臭。

胃酸が込み上げてくるのを堪え、シンクを覗き込む。 ピカピカに磨かれたステンレスの排水溝。その奥の網の目に、真っ黒な、ぬるぬるしたゼリー状のヘドロがべったりとこびりついていた。 毎日漂白剤で拭き上げられているはずのこの家で、そこだけが異常に汚れている。

「沙耶さん、この汚れは……」

問いかけようと顔を上げた瞬間、背筋にぞわりと冷たいものが走った。

沙耶は重たいタンクを抱えたまま、瞬き一つせず、じっと私を見つめていた。 黒目がちの瞳の奥。底なし沼のように濁った暗闇。

「……お水、替えないと」

壊れた機械のように同じ言葉を繰り返し、彼女はゆっくりと背を向けた。 チャプ、チャプとタンクの水を揺らしながら、兄の死臭が染み付いた書斎へと、足音もなく消えていく。

【第三章:無菌の培養炉】

書斎に戻る。主を失った革椅子の脇で、巨大な筒型の機械が静かに明滅している。 緑色のランプ。『超音波式』の文字。 これだ。この部屋にずっと満ちていた重たい空気の正体。

タンクを外す。プラスチックの裏側に触れた指先に、ドロリとしたゼリー状の粘液が絡みついた。 思わずえずく。排水溝と同じ、泥と生ゴミが発酵したような猛烈な悪臭が鼻腔を突き破る。 警察は見落とした。まさか「ただの水」が、密室の凶器になるなどと想像もしていなかったからだ。

いつの間にか、沙耶が音もなく書斎の入り口に立っていた。

「あんた……このタンクに何を溶かした?」

振り返った私の声は、ひどく掠れていた。 彼女は答えない。こてんと首を傾げている。

「兄さんは水道水を嫌った。塩素の匂いが不潔だと喚いて、機械には必ず高いミネラルウォーターを使わせていたな」 水を加熱して殺菌するスチーム式ではない。超音波式は、タンクの水を細かく振動させ、そのまま空気中にバラ撒く。 塩素のない水。密閉され、暖められた室内。 そこに、あの排水溝で純粋培養された真っ黒な雑菌のヘドロを数滴垂らしたらどうなるか。

機械はご丁寧に、致死量のバクテリアを微細なエアロゾルに変え、部屋中に噴霧し続ける。兄は安全な無菌室だと信じ込んだまま、自ら好んで、腐ったヘドロの霧を肺の奥深くまで吸い込み続けたのだ。 急性間質性肺炎。肺胞がカビに食い破られ、陸の上で溺死したのも当然だ。

「己の潔癖症が作った、完璧な毒ガス室だ。あんたはただ、言われた通りに水をセットしただけ。外から鍵を開ける必要すらない。兄さんは自分で自分の肺を腐らせたんだ」

喉がカラカラに渇いている。証拠を突きつけたというのに、胸のつかえが少しも取れない。 沙耶は否定しなかった。 ただ、虚ろな目元がふわりと歪み、初めて、彼女の顔に「人間らしい」微かな笑みが浮かんだ。

「あの人、いつも言っていました。お前は汚い。野良犬みたいなゴミの匂いがするって」

血の気のない赤い唇が、三日月のように吊り上がる。

「だから、私が一番汚いと思うものを、あの人の一番綺麗な肺の奥まで、届けてあげたんです」

【第四章:粘膜の白(修正版)】

私が一番汚いと思うもの。 沙耶の赤い唇が、ゆっくりと動く。

「あの人が『うるさい、不潔だ』と言って踏み潰した、私のインコ。羽も内臓も、全部排水溝の奥に押し込んで……私の血と一緒に、真っ暗な場所で腐らせたんです。ドロドロの、真っ黒なゼリーになるまで」

胃液が喉の奥までせり上がってくる。 兄は、妻の血と小鳥の腐肉が発酵したヘドロを、ご丁寧に最新式の機械で部屋中に撒き散らし、それを無菌の肺の奥底まで貪り食って死んだのだ。

狂っている。 吐き気を堪え、後ずさりする。早く警察を呼ばなければ。この女から離れないと。

「……ケホッ」

静かな部屋に、くぐもった咳が響いた。 私ではない。沙耶だ。 口元を押さえた彼女の白い指先に、赤黒い染みがついている。 よく見ると、彼女の血の気のない肌には異常な脂汗が浮き、呼吸はひゅー、ひゅーと浅く乱れていた。

「あんた……自分も吸ってるじゃないか……!」

「ええ。今日は、とても乾燥しますから」

沙耶は口元の血を拭おうともせず、うっとりと目を細めた。 兄を殺すための毒霧。それを毎日継ぎ足し、同じ空間で呼吸していれば、彼女の肺も無事で済むはずがない。 最初から、この女は自分だけ助かる気などなかったのだ。夫への復讐と、自分の身勝手な心中。その道連れにするために、私をこの部屋へ呼び出した。

その瞬間。 私の喉の奥で、じわり、と嫌な痒みが走った。

「っ……!」

反射的に咳き込む。血は出ない。激痛もない。 ただ、肺の奥底に、目に見えない無数の「何か」がべったりと張り付いたような、ぞっとするような違和感。 リビングの奥からシューシューと鳴り続ける巨大な加湿器。私はこのマンションに入ってから一時間以上、あの重たくて甘腐った空気を、無防備に深呼吸し続けていた。

即効性の毒ではない。 だが、温かく湿った私の肺胞の中で、今この瞬間も、彼女が培養した腐肉のバクテリアが確実に根を下ろし、繁殖を始めている。 兄が死ぬまでに、数日かかったのだろうか。私の肺が腐り落ちて呼吸ができなくなるまで、あと何日残されている?

「さあ。もっと深く、息を吸ってくださいね」

沙耶がゆっくりと歩み寄ってくる。 部屋に充満し始めた真っ白な霧が、彼女の輪郭をぼやけさせていく。

私は嘔吐しながら、這いつくばって玄関のドアに手をかけた。 外の空気を吸えば助かるわけではない。すでに手遅れだ。私の体の中には、もう彼女の狂気がびっしりと産み付けられている。

背後から聞こえる沙耶の湿った咳と、単調な機械の駆動音。 掻き毟りたくなるような喉の奥の痒みだけが、私の余命を冷酷にカウントダウンし始めていた。